HeartBreakerU  6




 
「薫。お前に届け物だ」
豪華なホテルの一室に帰ってきた薫は、ブラックスーツ姿の男にそう言われて立ち止まった。
男は国際郵便を持っている。
「おまえの研究室からだな。何か記録媒体が入ってるようだ」
「ああ、ありがとう」
そう言って受け取ろうと伸ばした自分の手を見て、薫はぎょっとした。
手のひら全体がてらてらと不気味に光る朱色……血に染まっていたのだ。生々しいその血は右手から滴るほど大量だ。
薫はハッとして自分の手をひこうとしたが、思いとどまった。封筒を差し出している男は薫の手を見ても表情一つ変えていない。
そもそも先程の沖田の病室への来訪では、薫の手が血に染まる様な出来事など何もなかった。それに薫が沖田の病室に行ってからもう一時間以上経っている。例え手が血まみれになっていたとしてもとっくに乾いているころだ。
「……ありがとう」
叫びだしたくなる気持ちをこらえて、薫は極力抑えた声でそう言い、血まみれのままの手で封筒を受け取った。
思った通り、手で触ったはずの封筒は血で汚れなどしない。きれいなままだ。
突然催した吐き気と頭痛に、薫は広いスイートルームでそれぞれくつろいでいるブラックスーツの男たちをちらりと見て、誰も薫に興味を寄せていないのを確認してからバスルームへと行った。
吐こうとしても吐けないのも知っている。頭痛を止めるためにアスピリンを二錠口に放り込んだ。そして洗面台で青ざめた顔をしている男を鏡越しに見つめる。
自分の顔とは思えないくらい白くなり、だが目だけは異様にギラギラと光っている。額には脂汗。
薫はぶつぶつと呟きながら、水を出した。袖をまくり上げて石鹸をつけて血まみれの手を洗う。
洗っても洗っても血は取れない。
この血は幻覚なのだということも薫にはわかっていた。その証拠に、流れていく水は透明のままだ。
「赤ちゃんがうまれるときかみさまは、ひとりひとりのあかちゃんにおくりものを……」
薫はつぶやき続ける。
幻覚、幻聴、頭痛、睡眠障害。
あらゆる現象がでるたびに、こうやって昔覚えた絵本の言葉を暗唱してきた。
まだ狂っていないと言うことを自分で確かめるために。
「ほっぺのあかいあかちゃんにはこのおくりものがいい。とどけておくれ……」
ぶつぶつと呟きながら、薫は執拗に手を洗い続けた。ロキソニンの効果で頭がぼんやりしてくるのを感じる。
「あかちゃんはよくわらうあかるいこどもになりました……最後は、最後の赤ちゃんへの贈り物は……なんだっけ……」
よくねむるあかちゃんへのおくりもの。

『薫はよく眠る赤ちゃんだったのよ、だからおくりものは……』

誰かの優しい声が聞こえる。
「なんだっけ……思い出せない」
薫は水を止めると、手を拭いてバスルームを出た。執拗に洗った手は相変わらず薫の目には血まみれのままに見えた。
でも大丈夫、少し眠れば大丈夫なはずだ。これまで毎回そうだった。

眠って目が覚めても、まだ手が血でぬれていたら……そしたらとうとう俺も狂ったということになるんだろう

薫は朦朧としてきた意識の中でぼんやりとそう思う。そして近くにいたブラックスーツの男に「しばらく眠る」と言うと、隣の部屋へ行きベッドの上に倒れこんだ。

 

薫は昏々と眠りこみ、目を覚ますとまず自分の手を確認した。
手は男にしては白い、いつも通りの肌の色だった。
「……」
特に安堵するわけでもなく、薫は淡々と起き上る。
いつかは必ず狂うのだ。そして戻れなくなる。今がその時でなかったというだけで、特に喜んだり安心するようなことでもない。
物心ついたころからもうずっといつ狂うかと思いながらの生活だったため、特に感慨はなかった。いっそのこと狂ってしまった方が、この『いつ狂うか』という恐怖からは開放されるから楽かもしれないと思う。
薫は郵便物を持って共同の大部屋を出た。
必ず捕まえてくるようにと言われていた千鶴を逃し、さらに友好国である日本の病院での大立ち回りに羅刹二体と三人の組織の人員が殺害された。
ホテルにある組織の仮の本部は、この不始末の後始末と今後の方針を決めるために夜中でも大勢の人間が本土と連絡を取っていた。
きっと夜が明けたら千鶴達の行方を捜しに動き始めるに違いない。

薫はホテルにある自分の個室に戻ると郵便物の中身を確認して、時差を確かめ、この郵便物の送付元へと電話する。
「……驚いた?」
電話に出た相手に向かって、名乗りもせずに薫は開口一番そう言った。
相手は一瞬面食らったように黙り込んだが、すぐに答えた。
『……ええ、驚きましたよ当然。あれはどこで手に入れたんですか?』
「日本で拾った」
『拾ったって……ありえないでしょう。あれはあなたの……私たちの設計思想そのものを具現化したものじゃないですか。たまたま同じことを考えていた研究所があって、そこがたまたま我々が解決できないでいた所をクリアして、さらにそれを完成させていた……そんな研究所この世界にもう一つあったなんて考えられないですよ』
相手の困惑したような言葉に、薫は椅子に寄りかかり楽しそうな表情になる。
「もう一つあったんだよ。……ただし『この世界』じゃないところにね」
『はあ?』
更に困惑した相手の様子に、薫はとうとう声に出して笑った。
「俺たちが研究して設計して実験して失敗していた例の物は、二十年後にはできあがったってことさ。羅刹の超人的な頭脳のおかげでね。まあ俺に言わせればまだ完全な完成品ではないけどね」
『……意味が分かりません』
「俺たちが作っていたものは時間を越えるための装置だろう? 現在は未完成のそれが、完成品として今俺たちの手元にあるってことは、時間を超えることが出来たってことだよ」
『……つまり、未来からこれを使ってタイムトラベルをしてきた人間がいたと?』
「そういうこと」
『……』
「そいつはタイムトラベルの衝撃でかなり弱っていたよ。それに……盗聴していてわかったんだけど、どうもソレは二回タイムトラベルをすると致命的な障害をタイムトラベラーに与えるみたいだね。原因は予想がつく?」
『まあ、エネルギー源を考えればだいたいは』
薫は「さすがだね」といいながら、送られてきたUSBメモリをタブレットにさし、データを見ていく。
「時空をゆがませてひずみを作り飛び越えるためには、莫大なエネルギーがいる。俺たちが考えていたのは原子力だったけどそれをここまで軽量化することが未来でできていたなんてね」
『詳細なつくりはわからないですが、携帯型小型原子力発電所とでもいうようなものですね、これは』
「この資料に、原子力電池って書いてあるけど、ここまで高出力のものはないよね?」
『そうですね。原子力電池はありますが、エネルギー量も安定性もまだまだタイムマシンに使うには難しいレベルですね』
「ってことは、あのタイムマシンもエネルギー不足で使えないってことか……」
薫は資料にある写真を、暗いホテルの室内の明かりの下で眺めた。
できあがったタイムマシン自体を手に入れたことは大きな前進だが、それを使うにはエネルギーの開発が必要になる。実用するのはやはり二十年後なのだろうか。しかしそれまで薫が狂わずに生きていられるかわからない。

……いや、多分無理だろう。

薫は、先ほどまで血まみれだった自分の手を見た。
幻聴も幻覚もかなり頻繁になってきている。タイムリミットが近づいているのを、薫は体で感じていた。
『ウランペレットをそのまま使えば、エネルギー自体は供給できますけどね』
「ウランペレット? 原発とかに使う?」
『そうです。純度が高いものを使えば』
「タイムトラベルができるのか?」
『百年や千年は無理ですけど、五十年以内くらいのエネルギーなら多分できます。ただ、このタイムマシンは原子力電池用にできていてそこにウランペレットをつっこむわけですから多分二度目は使えないでしょう。つまり行ったきり戻れない。実用的ではないですよね』

一度きり……

薫の脳裏に、過去の情景がうかんだ。
綱道の手に掴まれた五歳の自分のむき出しの腕。近づく注射針。
母親の悲鳴が後ろから聞こえて、薫も泣きながら母に助けを求めた。とびかかってきた母親を、綱道は反対の腕で投げ飛ばし、注射針を一旦机に降ろすと隣に置いてあった拳銃を取り、母親へ銃口を向ける。
次に薫の視界に入ってきたのは、部屋の壁に飛び散った母親の赤い血。
茫然となった薫の腕にチクリと痛みが走り、何が起こったのかわからないまま意識が遠のくのを感じて―――

「……ウランペレットは手に入るのか?」
『そりゃあ研究で必要だと言えば手に入らない物はありませんけど……』
「できるだけ純度を高いのを手に入れて、本体と一緒にこっちに送ってくれないか」
『あの、言い忘れましたが、もちろんこんな状態のタイムマシンを使ってタイムトラベルをしたら命の保証はありませんよ?』
「あのタイムマシンの問題点と対策はだいたいわかってるよ。開発者だから当然だろ? エネルギーだけが問題だっただけで」
『いえ、だから危険すぎるし戻れないって……』
「大丈夫だよ。無茶はしない。未来の状況を知ってるヤツがいるんだからそいつにいろいろ聞いてみたいだけ。いい? 頼んだよ」
薫は強引にそう頼むと、電話を切った。





7へ続く



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